復興から高度成長への過渡における日本鉄鋼業

           …戦後第一次合理化とその歴史的位置

 

                 氏  名  上岡 一史

                 所属専攻  社会と経済

 

要旨

 1940年代の後半の戦後復興期を終えてから高度成長がはじまる55年までの5年間の鉄鋼業の動向を明らかにし、これを戦後の鉄鋼業の歴史の中に位置づけることが本論文の課題である。このため、この5年間を特徴づける第一次合理化と業界体制の再編成について検討した。

 第一次合理化は、戦中・戦後の世界の鉄鋼業の発展から取り残されしまった日本の鉄鋼業がこの遅れを取り戻すため全力をあげて取り組んだ、当時としては大規模な近代化投資で、これに成功することによって日本鉄鋼業は国際競争力をかなりの程度にもつにいたったのである。

 業界体制の再編成とは、半官半民の日鉄が純民間企業の八幡と富士に分割されたことを契機に、それまで日鉄から原料を供給されていた平炉・単圧メーカーに分解が生じたことである。そこから浮かび上がった平炉メーカー大手3社が一貫3社とならび、後の六社体制形成の端緒をつくり、ここから取り残された企業は大メーカーの系列下にはいるか衰退するかのどちらかの道をたどることとなったのである。

 そして最後に、この二つがその後の鉄鋼業の発展の歴史にどう位置づくのかについて考えてみた。

 

 

目次

 

序章 50年代の出発                    1

 1.国際競争の重圧…ドッジ・ラインのもたらしたもの  1

 2.国内における新たな競争条件の出現…日本製鉄の分割 3

第1章 戦後第一次合理化                  6 

 1.朝鮮戦争の勃発と動乱ブーム            6

 2.第一次合理化の開始                8

 3.第一次合理化の特徴                10

 4.第一次合理化における国家の役割          14

 5.川崎製鉄による一貫工場の建設           19

 6.第一次合理化の効果と生産力の増大         21

第2章 業界体制の再編成…大手6社による競争的寡占体制

  (六社体制)成立の端緒                24

 1.業界体制の再編成                 24

 2.一貫3社による一貫生産体制の整備と市場支配力強化

  への動き                      25

 3.平炉メーカーの分解                26

  (1)平炉メーカー大手3社の製銑部門への進出(一貫メーカー化)

  (2)一貫メーカーのよる平炉メーカーの系列化

 3.単圧メーカーの分解                30

  (1)背景…日鉄の分割と第一次合理化

  (2)単圧メーカーの系列化と親企業の支援による系列企業の近代化

  (3)中下層単圧メーの敗退

終章 過渡期としての50年代前半             35

 1.第一次合理化の過渡的性格             35

  (1)戦後復興の完成と高度成長の開始

  (2)設備投資の規模にみられる過渡的性格

  (3)設備投資の内容における過渡的性格

 2.六社体制への過渡                 39

 3.高度成長期の発展を準備した50年代前半      40

おわりに                         41 

 

 

序章 1950年代の出発

 

1.国際競争の重圧…ドッジ・ラインのもたらしたもの

 

 敗戦により壊滅した日本の鉄鋼生産はその後の復興期をへて徐々に回復、50年代にはいる頃にはほぼ戦前の水準を取り戻していた。

 すなわち、49年の粗鋼生産高が311万トン、50年が484万トンで、戦時体制下の膨張の以前の時期とあまり変わらない水準(30年が229万トン、35年が470万トン)まで回復したのである。

 ところで、この生産回復は主として休止していた戦前、戦中からの生産設備を復旧・稼働させることによって達成されたものであった。しかし日本鉄鋼業が世界の鉄鋼業から隔離されていた戦中から戦後の時期の間に、アメリカ、西欧などの先進工業国においては生産設備の近代化が進んでおり、やや乱暴にいえば日本のみが古くさい生産設備で生産を続けていたのである。このため日本の鉄鋼製品は著しくコスト高で、かつ品質も劣り、従って輸出もほとんど望めない状況であった。

 この現実はしかし、正常な貿易が途絶し巨大な軍需の存在していた戦争中や、各種補給金と複数為替レートにより保護されていた復興期の日本鉄鋼業にとっては目をつぶっていてもさしつかえない状況であったが、49年になって、ドッジ・ラインが実施されると状況は一変した。すなわち、49年4月には単一為替レートが設定され複数為替レートによる保護が消滅、また裸生産者価格にしめる割合が銑鉄で87.5%、鋼材

         (1)

で76.4%もあった各種補給金が50年7月1日までに3段階に分けて削減・撤廃されることになったのである。この措置により日本鉄鋼業はいやおうなく国際的な立ち遅れを自覚せざるをえなくなったのである。鉄鋼製品の輸入についてはとりあえず外貨規制により防げるとしても、原燃料のほとんどを輸入に依存する以上ある程度の輸出は確保せざるをえない。また国内市場においても高鉄価は当然需要の減少を招くであろうし、輸出産業として期待されていた軽機械類生産や造船業にとっても高鉄価はその国際競争力をそぐ役割をはたしてしまうであろう。

 当時際、ドッジ使節団や経済安定本部の中には「資本効率中心の国際

         (2)

分業の立場からみて」立ち遅れた日本鉄鋼業は維持するに価しない、という鉄鋼業廃止論すらあったのであり、「戦時戦後を通じ、統制下に忘

                             (3)

れられていた能率とかコストとか、生産性、採算性などの概念を」いやがおうでも思い出さざるをえなかったのである。

 かくて、各企業はとりあえず49年から50年の前半にかけてコスト切り下げのために主として各種の原単位の切り下げの努力を、アメリカから派遣された技術者の助けをもかりながらおこない、一時は戦前に比べてもかなりの程度に悪化していた各種の原単位が同時期の操業度の向上の効果もあって戦前とほぼ同じ水準まで回復した。

 また「能率給の引き下げによる事実上の賃金引き下げ、分割払い、遅

                           (4)

払い、非能率工場の閉鎖による集中生産にともなう人員整理」などにより賃金コストが削減された。

 しかし生産設備の遅れをそのままにしての原単位の向上や人員削減によるコストの切り下げには当然限界があり、日本の鉄鋼製品は依然として国際水準からかけはなれたものであった。すなわち、「すでにマーシャル援助により合理化を終えた西ヨーロッパ鉄鋼業の進出によって、わが国の鋼材はまったく歯が立たぬ有様であった。……たとえば当時インドにおいて行われた鋼管の国際入札においては、ドイツ物はカルカッタCIF65ドル、ベルギーにいたっては45ドルという安値であり、これに対し120〜130ドルをとなえる日本品はまったく問題にならなかったのである。補給金廃止前の当時においてすら、すでにこうした状況であるのに、7月以降は補給金撤廃によって生産者価格はさらに5〜10%の値上がり必至とみられていたのであるから、輸出もこの調子で

                (5)

はほとんど望みがないものとされた」のであり、「この割高価格を引き上げるのには、戦後生産再開いらいの原単位向上と労働強化のみでは不

                             (6)

可能となり、設備の更新と近代化以外にその解決方法がなかった」のである。

引用文献

(1)剣持通夫「日本鉄鋼業の発展」(東洋経済新報社1964)P28

(2)日本鉄鋼連盟「戦後鉄鋼史」(1958)P57

(3)川崎 「戦後鉄鋼業論」(鉄鋼新聞社1968)P60

(4)飯田賢一・大橋周治・黒岩俊郎編「現代日本産業発達史W 鉄鋼」                       P415

(5)前掲 日本鉄鋼連盟「戦後鉄鋼史」P86

(6)前掲 剣持「日本鉄鋼業の発展」P64

 

 

2.国内における新たな競争条件の出現…日本製鉄の分割

 

 戦前以来日本の鉄鋼業界は、日本製鉄など小数の銑鋼一貫メーカーが巨大なシェアをもつと同時に、この周囲に中小の平炉メーカーと単圧メーカーが多数並存する独特の体制をもっていた(注)。そしてそこでは日鉄は国策に従ってこれらの平炉メーカーや単圧メーカーに原料の銑鉄や半成品を供給していたのであり、これにより平炉メーカーと単圧メーカーは巨大一貫メーカーと平和に共存できたのである。

 ところが50年4月にこの日本製鉄が、過度経済力集中排除法により50年4月分割され、八幡製鉄と富士製鉄という純粋の民間企業になってしまったのである。このため八幡製鉄と富士製鉄にとってはそれまでの国策企業としての経営から一変して利潤を追求するための経営にかわることを要求されたのであるが、このことは他のメーカーにとっては巨大な競争相手が急に出現したことを意味するとともに、これまで日鉄に原料を依存していた平炉・単圧メーカーにとってはこの競争相手が同時に自己の原料供給を握り、場合によっては自己の死命を制することもできるようになってしまったことを意味するのである。これにより各鉄鋼メーカーは国内的にも激しい競争の中におかれることなったのである。

 

(注)鉄鋼メーカーは、その生産形態により次のように分類される。
   一貫メーカー…銑鋼一貫企業とか高炉メーカーとかよばれる。高
    炉により銑鉄を生産する製鋼工程、銑鉄と屑鉄を主原料として
    平炉により鋼を生産する製鋼工程、鋼(半成品)を圧延して鋼
    材とする圧延工程の各工程を一貫して行う企業。最も効率の良
    い生産形態である。とくに高炉が巨大な資本を必要とするため
    高炉をもちうるのは巨大企業のみである。

    平炉メーカー…高炉をもたず、一貫メーカーから銑鉄の供給を受
    けて、平炉による製鋼工程と圧延工程を行う企業。一般に高炉
    メーカーより小さい。

     なお、製鋼は電炉によっても行えるが、この時期には電炉に
    より生産された鋼は大部分が特殊鋼生産のためであり、普通鋼
    を生産する電炉メーカーはこのためには一貫メーカーから購入
    した半成品を使用する。このため、本論文では電炉メーカーは
    単圧メーカーと一括して扱うことにする。

    単圧メーカー(単独圧延メーカー)…高炉・平炉をもたず、圧延
    う企業。一般に高炉メーカーや平炉メーカーより小
    規模。生産する品種は棒鋼や薄板などの軽量物が多く大部分の
    単圧メーカーは1品種のみを生産している。

     伸鉄メーカーと区別のつきにくい企業も存在し、景気のいい
    ときは単圧メーカーに、景気が悪くなると伸鉄メーカーにもど
    る企業も多い。

    伸鉄メーカー…良質の屑鉄やミス・ロール品、端尺物などを原料
    としてこれを再圧延する企業。単圧メーカーよりさらに零細で、
    いわゆる町工場的な企業である。

 

 

第1章 戦後第一次合理化

 

1.朝鮮戦争の勃発と動乱ブーム

 

 ドッジ・ラインにより、49年4月に単一為替レートが実施され複数為替レートによる見えざる補給金が切られ、また各種の補給金も段階的に削減され、いよいよ50年7月1日には鋼材にたいする補給金が全廃されることになり、日本鉄鋼業は国際競争に裸で立ち向かわざるをえなくなっていた。この国際競争に生き抜くためにはその生産設備の抜本的な改善を余儀なくされていたのであるが、日本鉄鋼業にも日本経済にもこれをおこなう資本の蓄積はなく、ほとんどただなすすべなく7月1日を迎えようとしていた。

 ところがこの7月1日を目前にした6月24日、突如勃発したのが朝鮮戦争だった。日本鉄鋼業にとってこれは「神風」以外のなにものでもなかったであろう。

 まず、米軍の特需という形で鉄鋼需要が舞い込んできた。特需は「9月20日までのほぼ3カ月間に受注高は鋼材5.3万トン、二次製品2.

                (1)

5万トン、合計7.8万トンに上り」「ほかに間接にトラックなどの形

                          (2)

で出ている鉄鋼は、8月末現在で2.6万トンにおよんだ。」月産30万トンにみたなかった当時の日本鉄鋼業にとって、この特需はまことに大きなものであった。

 また世界的な鉄鋼の思惑買いなどにより鉄鋼輸出も急増した。朝鮮戦争勃発前には月3万トン程度しかなかった輸出が、7月から9月の3カ月間に19.3万トン(半成品等と一次・二次製品の合計)にのぼったのである。国際価格も急騰、日本製品の割高などどこかに吹き飛んでしまった。

 また国内需要も動乱ブームにのり急増し、価格も急騰した。一例として棒鋼(19ミリ)と薄板(1.6ミリ)の八幡建値の動きをあげると、次の表1のとおりとなる。

 しかし、市中価格はさらに高騰、表1ー2のようにまたたく間に2〜3倍になった。

(表1)1.建値推移        (単位:千円/トン)   (3)

     50.8/9 9/10 10/11 11/12 12/51.1  1/2  2/3  3/4

棒鋼(19ミリ) 24.0  24.0  25.0  26.0  27.0  29.0  30.0  32.5

薄板(1.6ミリ)32.0  33.0  33.0  36.0  36.0  38.0  44.0  48.0

    2.市中価格推移      (単位:千円/トン)

      50.8   9   10   11   12  51.1   2   3

棒鋼(19ミリ) 21.3  21.5  27.5  29.0  29.4  32.0  45.5  60.0

薄板(1.6ミリ)39.0  48.0  47.0  50.0  50.0  59.7  82.0  94.0

 このため鉄鋼各社の収益も著しく向上した。49年上期には1.1%、同年下期には1.8%だった鉄鋼業界の使用総資本利益率は50年上期

                       (4)

には3.0%、同年下期には8.6%に上がっている。その要因として

                               (5)

は「生産の上昇もさることながら、価格の上昇によることが大きかった」 という。もっともこの数字は、綿紡、化学繊維、製紙などの収益の向上に比べれば遥かに低いというが、「しかしそれにしても、収益率がかなり好転したことは確かであり、鉄鋼業界がいちじるしく明るくなった事

             (6)

実はおおいがたいものがある」

 また、当初は北朝鮮軍の圧倒的な勢いにより8月には米韓軍が釜山の一角に追いつめられ、短期間で終わるのではないかとも見られたこの戦争も、その後米軍が盛り返し、長期化の様相を呈してきた。そして「もし動乱が早期に終止することとなっても、復興用として多量の鉄鋼がわが国に発注されることはほぼ確実であり、したがって鉄鋼業は鉄鋼に関する限り戦乱が続いてもよく、停戦となってもよい、という立場に立ち

  (7)

えた」のであるから、上記のような好情勢は当分の間続くものと考えられた。

引用文献

(1)前掲 日本鉄鋼連盟「戦後鉄鋼史」P87

(2)同上

(3)同上 P90・91

(4)前掲 飯田他編「現代産業発達史W 鉄鋼」P428

(5)前掲 日本鉄鋼連盟「戦後鉄鋼史」P92

(6)同上 P90

(7)同上 P88

 

 

2.第一次合理化の開始

 

 このような収益の向上と需要増大の長期化の見通しにより、日本鉄鋼業はようやく大規模な設備の近代化に取り組むことが出来るようになった。

まず八幡製鉄(10月6日)、日本鋼管(10月11日)が相次いで近代化3カ年計画を発表、ついで川崎製鉄が銑鋼一貫工場の新設計画を発表(11月15日)、さらにその他の各社も続々と近代化計画を発表した。「拡張ブーム」が訪れたのである。これらの計画を合計すると72社で総額1,200億円を必要とすることとなり、51年度末まででも573億円が必要となることになる。「これを49年度の設備投資実績60億円と対比するならば、鉄鋼企業のビヘイビアの変化はここに決定

        (1)

的に示されている」。

 しかし、「このような各社の合理化計画も、…資金的に必ずしも裏付けられたものでなく、ことに26年度後半の景気の中だるみ現象に縫着

                  (2)

するにおよんで若干の計画圧縮が行われ」、コストの低下を主眼として

            (3)

「無用な二重投資を避ける」という線に沿って行政指導も行われた。こうして各社の計画を調整したものが52年2月になって産業合理化審議会鉄鋼部会長名で「鉄鋼業の合理化に関する報告」(昭和26年ー28年)として発表された。16社総額628億円かけた計画で、これが「戦後第一次合理化計画」である。

 ところで一般に、50年代前半の産業合理化は動乱ブームが終息し日本経済の底の浅さが露呈してから開始されたように言われている。しかしこれはこと鉄鋼業に関する限り当たっていないようである。もっとも近代的設備が実際に輸入され設置されたのは動乱ブーム終息後になってしまったものがほとんどであろうし(注)、ブームの渦中では旧来の老朽化した設備を補修して再稼働させたり、あるいは旧式の設備(例えばプルオーバーミル)を新設してブームに乗ろうとしたもの(主として中小単圧メーカー)がかなりあったが、第一次合理化が計画され動きだしたのはあくまでブームの渦中だったのである。

(注)50年から55年の間の合理化機械輸入額のうち50年と51年  を合わせても8.9%しか輸入されていないのにたいし、52年か  ら54年の3年間に84.0%が輸入されている。

引用文献

(1)前掲 飯田他編「現代日本産業発達史W鉄鋼」P422

(2)前掲 日本鉄鋼連盟「戦後鉄鋼史」

(3)同上

 

 

3.第一次合理化の特徴

 

 この第一次合理化はその実施の過程で、計画の追加や遅れ、また価格の上昇などがあって、最終的に55年までの5年間、42社1,294億円をかけた事業となった。

 この第一次合理化の特徴の第一は、圧延工程の近代化に重点がおかれ、総工事費の50.1%が投入されたことである。

 当時、日本の鉄鋼業の設備全てに老朽化が激しかったが、なかでも圧延設備の老朽化が激しく、日中戦争開始以前に建設された設備がたとえば薄板で95%、鋼管で85%を占めていた。しかし問題は、単に設備が老朽化していたというだけではない。日本の鉄鋼業が世界の鉄鋼業から隔離されていた戦中から戦後にかけて、アメリカをはじめとする技術の進歩は大きく、コストのみならず、品質の点でも決定的な差をつけられていたのである。製銑工程や製鋼工程における設備の差は品質にはさして影響がなく「また復旧修理して再稼働させるに際して、炉容の拡大、諸付属設備の改良によって実質的には更新され、それは生産性の向上

   (1)

に寄与」しうるのに対し、圧延工程においては、新鋭の圧延設備により生産される鋼材は、在来の圧延機で生産された鋼材とは「別個の商品と

                (2)

さえ言えるほど品質上の変化が大き」く、コスト面および品質面の双方において「在来の圧延機で生産した鋼材をもってしては、もはや商品と

                           (3)

して国際市場に通用しないという変化が海外で起こっていた」のである。このため、第一次合理化では圧延設備の近代化に重点がおかれることとなったのである。

 このほか、製銑工程・製鋼工程においては、それぞれ総額の12.5%および10.3%が投下され、既存の高炉・平炉の復旧・改修とこれに伴う炉容の拡張、および原料の事前処理技術の向上が行われた。

 第二の特徴は、重点をおかれた圧延工程の設備投資のうちでも約40%がストリップ・ミルの導入にかけられたことである。この理由は

@ 鉄鋼需要の重点が世界的に条鋼類から板類に移行しつつあり、とく に薄板の需要が自動車や各種の家庭用耐久消費財の生産の伸びにとも ない世界的に大きく伸びており、国内的においても需要の伸びが予想 されていたこと

A 1分間に1,200メートル(時速72キロ)の速度で薄板がコイ ルにまきとられるストリップ・ミルは、従来の人力でシートバーを圧 延機にかけて荒圧延し、圧延された板をまた人力で折り畳みまたプル ・オーバー・ミルにかけて、また折り畳み、といった作業を繰り返す 旧来のプル・オーバー・ミルによる圧延とは生産性がけた違いである こと(産業合理化審議会鉄鋼部会の答申においてはプル・オーバー・

                              (4)

 ミルと比べて27%のコスト切り下げ効果があると予測している)

B 「コールド・ストリップ・ミルで製造される薄板は、表面の平滑・ 美麗という点で従来の熱間圧延薄板とは質を異にし、自動車・各種の

                           (5)

 家庭用耐久消費財の主原料はこれでなければ充足できない」こと

などである。

 このストリップ・ミルは、八幡製鉄および富士製鉄でホットおよびコールド・ストリップ・ミルが本格稼働するようになり、また日亜製鋼ではこれよりやや幅の狭いホット・ストリップ・ミルが導入された。また八幡および富士傘下のいくつかの単圧メーカーで親企業の支援によりレバーシング・ミル(小型のコールド・ストリップ・ミル)が導入された。

 ストリップ・ミル以外の主要な合理化機械には、同時に4本の線材が1分間に1,440メートルの速度でコイルにまきとられる連続式線材圧延機(上記の産業合理化審議会の予測によると旧来の機械に比べ21

                 (6)

%のコスト切り下げ効果があるという)が八幡製鉄光工場に、コイル状の帯鋼が連続的に電気鍛接され1分間に長さ6メートルのガス管が20本の割合でつぎつぎにとびだしてくるフレッツ・ムーン(上記予測によ

                  (7)

ると30%のコスト切り下げ効果がある)が日本鋼管に導入され、いずれもストリップ・ミルと同様コスト面でも品質面でも旧来の設備とは比較にならない効果をあげた。

 第三の特徴としていえることは、この第一次合理化が六大メーカー中心に行われたことである。

 この第一次合理化の所要資金1,294億円のうち、84%が一貫3社(八幡・富士・日本鋼管)と平炉メーカー大手3社(川崎製鉄・住友金属・神戸製鋼)という後の六大メーカーによる投資であった。

 そして六大メーカー以外では最大の40.8億円を投下してホット・ストリップ・ミルを建設した日亜製鋼は、この建設とほぼ同時期の朝鮮戦争ブーム後の反動不況期に経営危機に陥り、八幡の系列下に入りその支援をうけてようやく危機を脱している。またこれ以外で10億円を越す投資を行っている5メーカーのうち3メーカーのそれは、八幡・富士の系列下にはいり、親企業からのホット・コイルの供給を前提に、親企業の資金援助によってレバーシング・ミルを建設したものである。

 これらのことをあわせて考えると、この第一次合理化は明らかに六大メーカーが中心の設備近代化投資であったことがわかるのである。このことが後に述べるようにこの時期に鉄鋼業界の体制が再編成されはじめ六社体制形成の端緒がつくられる一つの要因となるのである。

 第4の特徴は、この設備投資資金の調達先を見ると、自己資金による部分が小さく、他人資金に大きく依存していることが特徴となっている。

 この第一次合理化には普通鋼部門で工事資金1,294億円を要しており、これに返済資金を加えると1,815.5億円にのぼるが、このうち自己資金によるのは23.5%の427.5億円で、これに増資による調達168.8億円を加えても32.8%にすぎず、残りの67.2%が他人資金によっているわけである。

表3 第一次合理化の資金調達(8)

 株式  社債 興・長銀 市銀他  開銀 別口外貨 自己資金  総計

168.8  290.5  445.7  196.7  147.3  139.0  427.5  1,815.5

(9.3) (16.0) (24.5) (10.8)  (8.1)  (7.7) (23.5)  (100)

引用文献

(1)前掲 飯田他編「現代日本産業発達史W鉄鋼」P425

(2)同上P424

(3)同上P425

(4)前掲 日本鉄鋼連盟「戦後鉄鋼史」P127

(5)前掲 飯田他編「現代日本産業発達史W鉄鋼」P425

(6)前掲 日本鉄鋼連盟「戦後鉄鋼史」P127

(7)同上

(8)同上P128〜9

 

 

 

4.第一次合理化における国家の役割

 

 この第一次合理化は、強力な国家的バックアップに支えられてはじめて実現したものであった。

 政府の産業政策と第一次合理化との関わりは49年からはじまる。

 49年9月に閣議決定された「産業合理化に関する件」においては『基礎産業その他合理化を特に必要とする産業については、合理化計画を樹立せしめ、政府に提出することを勧告し、必要ある場合は提出することを命ずる。政府は右の合理化計画を審査して勧告を行う』とされ、またこの計画の推進のため『合理化資金の確保』や『合理化を阻害する

                    (1)

障害の除去』などの施策を行うとされている。 資金の確保その他の側面援助を保証して合理化をさせようとする産業の各企業に合理化計画を樹立させ、これらを審査し調整して一定の方向づけを与え政府の産業合理化計画としこの計画の達成のため巨額の国家資金を投入するという政策体系の構想がこの時期にほぼできあがったのである。

 この閣議決定に基づき同年12月には通産大臣の諮問機関として産業合理化審議会が設置され、翌50年の6月には同審議会から「鉄鋼業および石炭鉱業合理化施策要綱」が答申された。ここで鉄鋼業と石炭鉱業の合理化について『合理化資金の確保と低金利措置』や『外国機械および外国技術への外貨資金の重点的割当て』などが『合理化の調査指導』

           (2)

とともにうたわれている。

 鉄鋼業界に合理化促進の笛が吹かれたのである。そして動乱ブーム期にはいり各鉄鋼企業が笛の音に合わせて踊り出す(注1)。各メーカーにより合理化計画が続々と通産省に提出されたことについてはさきにみたとおりであるが、これらの計画発表も、政府による『合理化資金の確保』などを期待してなされたものであるから、政府の合理化提唱の効果であろう。(注2)

 次に、この計画についての調整と指導もこの50年秋から52年2月の答申までの間に通産省及び産業合理化審議会によって行われたのである。圧延部門に重点をおき、かつ六大メーカーを中心とした合理化となったのもこの調整と指導によるものであろう。(注3)

 以上のように国家の政策が合理化計画の策定過程においてこれを計画の策定を促進し、かつ一定の方向をも与える働きをした。この政府の笛に合わせて合理化計画が出来上がった。次の政府の役割はこの合理化の「資金の確保」と「障害の除去」を空証文にしないように具体化することである。

 まず資金の確保のためには、第一に日本開発銀行が51年4月に設立された。

 政府資金を四大重点産業(電力・石炭・造船・鉄鋼)の合理化投資に集中的に投下するために設立された開銀の全融資の6.9%が鉄鋼業に融資された。これは第一次合理化の全所要資金の8.1%にあたる額で必ずしも多い額とはいえない。しかしこの合理化のヤマとなった51・52・53年にはそれぞれ所要資金の16.1%、14.7%、8.9%をしめており、また市中銀行の協調融資を引き出す役割を果たしていることをあわせて考えるとその役割は決して小さくはない。

 なお、鉄鋼業に対する開銀融資はこの時期の間に絶対額でも急減し、54年度にはすでに返済超過となっており、次の時期にはいり「56年度の開銀融資では、ついに鉄鋼は重点融資からはずされ、かわって新産

                (3)

業の育成が重点項目に登場してくる」という。「国家資金を呼び水とした資本蓄積の促進」が成功的に完遂したのである。

 また、大蔵省は51年4月30日に四大重点産業に対する融資を各銀行に要請しており、これも「開銀融資と抱き合わせの協調融資を促進し

        (4)

た行政措置である」。

 さらに別口外貨貸付制度によっても上の開銀融資と同程度の融資が行われており、合理化機械の輸入に大きな役割を果たした。

 次に、税制面からの合理化促進措置としては、@特別償却制度、A重要機械類の輸入税免除、B重要機械類の固定資産税の軽減、などが51年から52年にかけて創設された。

@特別償却制度

 日本経済の再建に役立つ機械などに3年間5割増の特別償却を認めることとなった(51年8月大蔵省告示、51年4月1日に遡って適用)。

 しかしこれは「定率法でやっていれば、かなり初年度が大きいんです

                              (5)

けれども、定額法でやっていると初年度としてはたいしたことない」ということで、さらに52年3月に成立した企業合理化促進法を本法とし、特別措置法の改正により、政府の指定事業に必要な合理化機械に対し初年度2分の1の特別償却を認める(51年4月に遡って適用)こととなった。

 51年から54年の鉄鋼業における特別償却額は57.3億円にものぼり、各企業の「資本蓄積は急速に増進、産業合理化資金の有力な源泉

    (6)

となった」。

A重要機械類の輸入税免除

 51年4月30日付「重要機械類の輸入税を免除する政令」によって、指定された機械類の輸入税が免除されることとなった。

 鉄鋼業においては、合理化機械は約213億円輸入されたが、このうち輸入税が免除される重要機械に指定されたのは約190億円で、免除された輸入税は約25億円にのぼったのである。

B固定資産税の軽減

 地方税法の規定により、企業合理化促進法の適用を受ける機械設備については固定資産税の課税標準額が3年間、2分の1になる。

 これらの制度は「租税負担が大きく軽減されるばかりでなく、これに

                             (7)

よって資本の回収が早められ、設備更新を促進させる役割を果た」したのである。

 

注1 勿論資本主義社会である以上各メーカーに踊る必然性があるから 踊るのであり、従って笛が吹かれなくとも何らかの形でやはり踊るの であろう。政府の誘導がこの時期には大きな意味をもつことは確かだ としてもこれを一面的に強調するのは誤りだろう。

  蛇足ついでにもう一つ。この笛の音自体、踊り手である鉄鋼企業の 意向をくんだものであることも勿論である。このことについて「日本                      (8)

 経済政策史論 下」では次のように述べている。

 「この閣議決定にいたるプロセスが、…経済諸団体などの合理化提唱 と阿吽の呼吸よろしく政策化してきたものであるが、それは単なる支 配的資本の圧力への対応としてのみではない。また戦時国家資本主義 下のような一方的統制でもない国家と資本の新たな密接な合成関係が 政府による『各産業の指導方針』の確立を軸に醸成されていく過程に ほかならなかったのである」と。

  純粋の自由経済ではなく、かといって統制経済でもないというかぎ りにおいては納得できる説明ではあるが、しかしポジティブな説明と してはわかったようなわからないような曖昧な説明である。

  この「新たな密接な合成関係」が醸成されていく過程として同書で はいくつかの経済団体の決議等をあげている。しかしこれらは財界と 政府の関係の表面にすぎず、実際には表面下での様々な動きがあった であろう。この双方の思惑と動きを具体的に解明することは大変興味 のあることではある。ここではもちろんそこまで踏み込むことは出来 ないがたとえば次のような回想は一つの参考にはなるだろう。

  「高木 特別償却制度はいったいだれが考えたんですか。やっぱり  平田(当時主税局長)さん…。

   泉 平田さんだね。あの人が昼、財界人と懇談すると、うっかり  できないんだ(笑)。帰ってきたら、『おいこれはどうじゃ』とく  るんだなあ。(笑)

   ……

   泉 特別償却の制度はわれわれも多少は勉強していたから、『あ   あ、きたな』というわけですね(9)。」

注2 「川崎製鉄25年史」に「昭和25年11月7日をもって新製鉄 所建設計画(粗鋼生産50万トン)に対する見返り資金貸与の願書を 通産大臣に提出した。建設資金163億円の約半額80億円を、政府 見返り資金に仰ぐためであった。」とある。

注3 ここで、政府はいつも大企業の肩を持つ、といった政治的な評価 をすることは間違ってはいないかも知れないがあまり意味のあること ではない。日本資本主義が資本主義である限り、「無用な二重投資を 避け」、少ない資金を有効に使うためには、企業体質のしっかりした 大企業にこれを集中するのはある意味で必然であろう。これ以上の評 価は、評価する人間の価値観の問題であり、ここでこれ以上ふれるべ きものではないであろう。ただここでは事実として指摘するだけであ る。

 

引用文献

(1)以上の『』内は安藤良雄編「日本経済政策史論 下」(東京大学  出版会1976)第11章「昭和20年代の産業合理化政策」(高橋衞)  P318・9よりの孫引き

(2)同上

(3)同上P350

(4)前掲「現代日本産業発達史W 鉄鋼」P429

(5)伊東光晴監修 エコノミスト編集部編「戦後産業史への証言 一」

                 (毎日新聞社1977)

(6)前掲 剣持「日本鉄鋼業の発展」P63

(7)市川弘勝「日本鉄鋼業の再編成」(新評論社1969)

(8)前掲 安藤他「日本経済政策史論 下」P318〜9

(9)前掲 伊東光晴監修「戦後産業史への証言 一」P26

 

 

5.川崎製鉄による一貫製鉄所の建設

 

 上記のように、製銑工程・製鋼工程においては既存の設備の復旧・改修を主とし、圧延工程の設備近代化に重点をおいた第一次合理化において、この中に位置づけられてはいるが全く独自の行き方をしたのが川崎製鉄であった。

 50年11月、川崎製鉄は千葉に銑鋼一貫工場を建設する計画書を通産省に提出した。千葉の埋め立て地に高炉2基、平炉6基、分塊・圧延機、ホット及びコールド・ストリップ・ミル各1基を設置し、銑鉄年産35万トン、粗鋼年産50万トンの能力を持つ一貫工場を163億円かけて建設するというもので、「50年度でさえ250万トン程度の粗鋼生産しかない業界に、一挙に50万トンの生産力をもつ一貫工場を、資

                   (1)

本金5億円の川鉄が163億円かけて建設」する、しかもその資金の約半分の80億円を国家資金に頼るという計画であった。「当時日本の高炉保有台数は全国で37基で、そのうち操業されているのはわずか12基しかなく、西山(川鉄社長…上岡注)の計画は枯渇しているといわれた資本の『二重投資』であるという批判を業界、日銀そして通産省から

   (2)

受けた」という。なかでも一万田日銀総裁の反対は「ぺんぺん草」のエピソードとともに有名だが、他方、通産省においても若手官僚のなかに川鉄千葉建設計画を支持する者もいたという。

 この計画に対し通産省の承認がなく、従って政府資金の裏付けがえられないまま、川鉄は51年5月、自己資金30億円をもって建設工事を開始した。「大量の備蓄鉄くずの値上がりおよび朝鮮動乱の特需によっ

             (3)

て高収益がもたらされたため」というが、いずれにしろ国家資金の後ろだてなくしては完遂できない計画であるのだから強引な見切り発車である。

 この計画はすったもんだのすえ、計画を4期に分け、第1期では高炉1基、平炉3基、分塊圧延機を建設し、残りの高炉1基、平炉3基、ホットおよびコールド・ストリップ・ミルの建設は第2期以降に行うという52年1月に再提出された計画の第1期分について承認するという形で52年2月になって正式承認され、異形ではあるが第一次合理化の中に位置づけられることとなったのである。

 この通産省の方針から明らかにはずれた川崎製鉄の千葉工場建設計画が結局承認されたことについては、通産省にこの計画を支持した若手官僚がいたこともあったようであるが、同時に見切り発車により既成事実をつくりこれを認めさせた川崎製鉄の旧財閥系企業としての政治力も効いていたように思われる。

 この川鉄千葉工場は、原料の船からの荷下ろしから製銑・製鋼・圧延、そして製品の船積みまでの全工程が合理的にレイアウトされていること、全工程に最新の設備の導入が予定されていること、大消費地の東京に近く、臨海立地であるため原料の搬入から製品の積み出しまで効率的に行えるなど、いずれもこれまでにない優れた計画で、次の時期の第二次合理化においては各一貫メーカーが競って同様の一貫工場を建設することになるのである。 

引用文献

(1)米倉誠一郎「鉄鋼―その連続性と非連続性」(米川・下川・山崎 編「戦後日本経営史 T」(東洋経済新報社1991)第5章) P291

(2)同上

(3)「川崎製鉄25年史」P77・78

 

 

6.第一次合理化の効果と生産力の増大

 

 この時期の主発点の50年における粗鋼生産高が484万トンであっった日本鉄鋼業は53年には戦時中のピークであった43年の765万トンと並ぶ766万トンを生産、さらに55年には941万トンに達している。5年間で生産は2倍に伸びているわけである。

 この生産増大の過程は、戦時体制下の異常な膨張(32年の粗鋼生産高240万トンから43年の765万トンまで、12年間に3倍強に増産)を上回るものであったが、しかし質的にも大きく異なるものであった。すなわち戦時体制下の増産が生産設備の単なる横への拡大によるものであったのにたいし50年代前半のそれは第一次合理化という大規模な設備の合理化によるものであったのである。

 この時期のはじめにはほとんど旧式の設備によって生産を行っていた日本鉄鋼業は第一次合理化によって次の表のように生産設備の近代化を実現したのである。

表 第一次合理化計画による設備近代化状況 (1)  単位:千トン、%

    旧設備 近代化設備(A) 合計(B) 近代化率A/B 51年3月の率

平炉  3,612   3,294    6,906    48     36 

薄板   813    824    1,637    50     10 

厚板  1,280    710    1,990    36     25 

線材   495    552    1,047    33     31 

帯鋼   456    540     996    54     - 

鋼管   448    333     841    47     32 

  ここでいう近代化設備とは、平炉(能力100トン以上のもの)、 薄板(ストリップ・ミルおよびレバーシング・ミル)、厚板(四段ロ ール)、線材(半連続及び連続式ミル)、帯鋼(第一次合理化で新設 のもの)、鋼管(スティフェルマンネン・フレッツ・ムーン式)をい う。

 そしてこの数字は中小メーカーをも含めたものであるから、大メーカーの設備の近代化はこの数字をさらに上回るはずで、少なくとも大メーカーの製品においてはかなりの程度に国際競争力を獲得したのではないかと思われ、55年には世界的な好況のなみにのって輸出を増加させていった。もっともこの時期の鉄鋼業は、『世界的鉄鋼不足の場合の限界供給者としての意味しかない』との批判を浴びていたのも事実であり、真に国際競争力を身につけ安定した輸出を確保するのは60年代に入ってからのようである。

引用文献

(1)前掲 剣持「日本鉄鋼業の発展」P69

 

 

第2章 業界体制の再編成

     …大手6社による競争的寡占体制(六社体制)成立の端緒

 

1.業界体制の再編成

 

 この時期の出発点、すなわち50年代初頭の日本鉄鋼業界は、一貫3社(八幡製鉄・富士製鉄・日本鋼管)が大きなシェアをもってその中核に位置するとともに、原料である銑鉄や半成品を一貫3社から購入しつつも経営は独立した平炉メーカーと単圧メーカーが一貫メーカーと並存するという戦前以来の独特の体制をもっていた。この体制が50年代前半の時期に再編成され始めた。

 すなわちまず第一に、新たに成立した八幡製鉄と富士製鉄が、とくに富士製鉄が、その製銑能力に比して製鋼能力が過小であり、さらにその製鋼能力に比して圧延能力が過小であるといういわゆる銑鋼アンバランスの是正をはかり真の一貫生産体制を整える動きを見せたことである。 また第二に、平炉メーカーのうち大手3社(川崎製鉄・住友金属・神戸製鋼)が製銑部門に進出、一貫メーカーに依存せずに銑鉄を自給することが出来るようになり、一貫3社とならびうる位置についたのである。

 第三に、この3社以外の平炉メーカーと単圧メーカー、特に単圧メーカーが徐々にその地位を低めていくと同時に一貫メーカーの系列下に組み込まれはじめた。「このような系列化は、昭和27、28年(52、53年)においてかなり活発に行われ、29年(54年)のデフレ期において頂点に達したとみられる。その内容は第一に原料供給の排他的傾向の強化にはじまり、第二に株式の保有の増加、あるいは新規保有を通じて債権の株式への転換、あるいは資金的な補強を実現し、第三に役員

                         (1)

および経営幹部を派遣して経営を指導するなどであった」のである。

 この三つの傾向がやがて次の高度成長期にはそれぞれに多くの系列企業を従えた一貫6社(旧来の一貫3社と新一貫3社)による競争的寡占体制(いわゆる六社体制)に帰着するのである。

引用文献

(1)前掲「戦後鉄鋼史」P150

 

 

2.一貫3社による一貫生産体制の整備と市場支配力強化への動き

 

 50年4月の日本製鉄の分割によって成立した八幡製鉄・富士製鉄と戦時中に一貫メーカー化した日本鋼管の3社がいわゆる一貫3社として日本鉄鋼業の中心に位置することとなった。

 民間企業となった八幡製鉄と富士製鉄にとっては戦前のように「民業を圧迫しない」という配慮はまったく必要なくなり、純粋に採算をめざした経営が要求されるようになったのである。

 ところで旧日本製鉄は一貫メーカーとして鋼材を生産すると同時に、平炉メーカーには銑鉄を、単圧メーカーには半成品を供給する役割をももっていた。このためその製銑能力に比して製鋼能力が、その製鋼能力に比して圧延能力が過小である(銑鋼アンバランス)という、一貫メーカーとしては弱点をもっていた。この弱点は分割後は主として富士製鉄に引き継がれた。このため富士製鉄はその成立以降このアンバランスの是正のため製鋼能力と圧延能力の増強に力を入れるのである。

 そしてこの結果として、外販銑鉄および外販半成品が絶対量ではともかく相対的に減少していくのである。

 また、戦前には日鉄が大きなシェアをもち、かつ強力なカルテルが形成されたいたため鋼材価格は比較的安定していた。ところが日鉄が分割されたことにより、トップ・メーカーの八幡製鉄のシェアは独占価格形成のためには小さすぎ、またカルテルは独占禁止法により禁止されていたため、鋼材価格の乱高下は激しいものになっていた。このため八幡製鉄と富士製鉄は市場支配力の強化をめざして平炉メーカー、単圧メーカーを系列化におさめようとするのである。

 以上のことは多数の平炉メーカー及び単圧メーカーからみれば、一貫3社が巨大なシェアをもつ強力な競争相手として突如登場したというばかりでなく、自己の原料の供給をほとんど完全に握り自己の死命を制することもできる恐るべき競争相手としてすきあらば自己を飲み込もうとしていることを意味したのである。

 

 

3.平炉メーカーの分解

 

(1) 平炉メーカー大手3社の製銑部門への進出

この状況の変化に対し、一貫3社につぐ実力をもった旧財閥系の平炉メーカー大手3社(川崎製鉄・住友金属・神戸製鋼)は銑鉄生産部門に進出することにより自立しうるようになった。

 まず先陣をきったのは川崎製鉄である。同社が第一次合理化の中で千葉に一貫工場の建設を開始、53年には第1号高炉に火入れした経緯については第2章で述べたとおりである。この千葉工場建設のための投資は同社にとってかなり無理を伴うものであったようであり、またストリップ・ミルの建設が58年までズレ込み、それまでプル・オーバー・ミルによる薄板生産を行っていたため、八幡などのストリップ・ミル製品

               (1)

の薄板市場への進出の前に「苦戦」するという事情も重なって、「(昭和)28年(53年)第一銀行より会長を迎えて銀行管理の型となり、29年(54年)上期より2年間無配、31年(56年)上期より2年

                            (2)

間5分、33年(58年)上期より2年間6分の配当にとどま」るという苦しい状況におかれることになったのである。

 したがって、この川崎製鉄の先進的な投資が効果を現し、一貫3社に並ぶ地位を獲得するのは次の時期にはいりストリップ・ミルが稼働しはじめる58年以降ということになる。

 また住友金属は52年に、小規模ながら高炉を持つ小倉製鋼の経営危機に際しこれと提携して役員を派遣、さらに53年にはこれを吸収合併、自社に高炉を持つことになった。「西山さんのところ(川鉄)が千葉に火入れするのと前後した時期で、形は違いますが、うち(住友金属…上

                           (3)

岡注)も西山さんのところもほぼ同時に銑鋼一貫体制を樹立」(日向方齋常務取締役・当時)したのである。川鉄ほど無理をせずに製銑能力を獲得したわけであるが、この小倉製鋼から引き継いだ製銑能力だけでは住友金属の必要とする量の銑鉄を供給することはできず富士製鉄からの銑鉄の購入も続いており、次の時期の第二次合理化において和歌山に一貫工場を建設して完全な形の一貫メーカーとなるのである。

 さらに神戸製鋼も、やはり小規模ながら高炉を持つ尼崎製鉄を系列化して銑鉄を獲得する。すなわち、54年の尼崎製鋼の倒産に際しその所有する尼崎製鉄の株式を取得、これを系列化したのである。この神戸製鋼も次の時期の第二次合理化において灘浜に一貫工場を建設、一貫メーカーの一員となっている。

 かくてこの3平炉メーカーは一貫メーカーへの上昇の道を歩み、旧一貫3社と並んで6社体制を形成するようになるのである。しかしこれ以外の平炉メーカーは、一貫工場を建設する資金力を(国家資金を引き出す政治力も)もたず、高炉メーカーを系列化する実力もなかった。

 

(2) 一貫メーカーによる平炉メーカーの系列化

 一貫3社にとって、銑鉄の安定した販売先を確保することは、圧延能力が製鋼能力に比べて劣るという状態が改善されるまでの間は必要である。また大手3社以外の平炉メーカーにとっても、銑鉄の安定供給は自己の存続のためには不可欠である。ここから一貫メーカーと平炉メーカーの特定の関係が出来上がる。しかしこの関係は、外販銑鉄のほとんどが一貫3社の独占であること、また両者の経営規模の圧倒的な差、などからして当然にも対等の関係ではありえない。ここから「原料の継続的

                      (4)

かつ排他的供給関係を通して企業の系列化が進行」したのである。もっともこの初期にはこの系列関係は弱いものでしかなかった。

 しかし、朝鮮戦争ブームがおわり、反動不況期にはいるとともに平炉メーカーのうちには経営危機に陥るものができ、倒産するものもでるとともに、原料代金のこげつきなどを契機により強い系列下に組み込まれるものもでてきた。

 公正取引委員会の調査によると53年初頭の時期に一貫メーカーに系列化された平炉メーカーは次のとおりであるという(公正取引委員会

                         (5)

「鉄鋼業における集中独占の動向について」53年6月)。

  富士製鉄系…大和製鋼、大阪製鋼、東都製鋼

  八幡製鉄系…日亜製鋼

  日本鋼管系…吾嬬製鋼、東芝製鋼

 このうち、大阪製鋼と東都製鋼はこの段階では原料供給関係に基づく弱い関係でしかないと思われるが、日亜製鋼と大和製鋼については次のようにこの不況期に強い系列関係が出来上がる。

 まず、平炉メーカーのなかでは大手3社につぐ日亜製鋼はこの不況期に経営危機に陥り八幡製鉄の系列化にはいり、「52年6月銑鉄および

                           (6)

鋼塊の供給を協定し、その後八幡は日亜の増資株を引き受け」その支援により危機を脱している。

また大和製鋼もやはりこの不況期の52年末から「債権の一部を棚上げ

       (7)

し、…資本参加」を受けるという形で系列関係を強めるとともに、富士製鉄の要求によって薄板生産を中止、中・小棒、厚板生産に転換してい

(8)

る。

 また、53年には一貫3社から独立していた尼崎製鋼(銑鉄は系列企業の尼崎製鉄から購入)が経営不振に陥り、経営規模縮小も労組の反対にあってスムーズにいかず54年に倒産している。

 ところで平炉メーカーの一貫メーカーによる系列化は、次の時期に入り製鋼工程が平炉からLD転炉に転換していく過程で本格化していきほぼ60年代中ごろには完了する。すなわち、この時期の終わりの55年に操業していた12社の平炉メーカーのうち、神戸製鋼はこのあとすぐに一貫メーカーになるが、残りの11社のうちで60年代後半の時期まで独立メーカーだったのは東京製鉄1社だけで、これと三井物産系の日本製鋼所以外の9社は六大メーカーの系列化にはいっており、しかもその系列関係は50年代前半にくらべてはるかに強くなっているのである。

引用文献

(1)前掲 「川崎製鉄25年史」P635

(2)前掲 川崎「戦後鉄鋼業論」P101

(3)森川英正監修 エコノミスト編集部編「戦後産業史への証言二 巨大化  の時代」(毎日新聞社1977)P59

(4)前掲 剣持「日本鉄鋼業の発展」P332

(5)同上 P73

(6)同上 P71

(7)「炎とともに 富士製鉄株式会社史」(1981)P830

(8)市川弘勝「薄板操短の背景U」(政経月誌33 1955)P6

 

 

3.単圧メーカーの分解

 

(1) 背景…日鉄の分割と第一次合理化の進展

 平炉メーカーを追いつめた事情は単圧メーカーにはさらに強力に作用した。

 日鉄が分割されて成立した八幡と富士に日本鋼管を加えた一貫3社にとって単圧メーカーは、一面では半成品の消費者であるが、他面自己の鋼材の競争相手でもある。しかもこの競争相手は小規模な多数の企業群であるため不況期には鋼材の投げ売りにより市場を撹乱する迷惑な存在でもあるのである。

 このためこの時期、一貫3社は一方で半成品の供給関係を通じて単圧メーカーの系列化を進めるとともに、他方で圧延能力を増強して半成品の自家消費を増し続けた。このため単圧メーカーの原料である半成品の供給は窮屈となった(次ページ表1参照)。

 同時に一貫メーカーは半成品の供給関係を通じて単圧メーカーを自己の影響下におこうと試みる。

 また、大メーカーを中心として行われた第一次合理化は圧延部門に重点をおいて実施されたことは前省において述べたとおりである。このことは直接には国際競争力をつけることを目的としていたものだが、同時に国内的には、その近代化した設備による高品質・低コストの製品が単圧メーカーの市場をどんどん侵食していき、単圧メーカーの存立基盤を狭めていったのである。

表1 半成品販売高     単位:千トン (1)

         51年  52年  53年  54年  55年

 半成品販売高  897  1,069  1,035  1,033  1,084

         (19)  (22)  (19)  (19)  (16)

 うち国内向け  838   835   909   894   717

         (18)  (17)  (17)  (16)  (11)

    ( )内は鋼材生産高に対する比率

 このことは第一次合理化においてとくに力を入れて設備の近代化が行われたストリップ・ミルの製品の進出がとくに著しい(表2参照)が、その他の部門においても大なり小なり同様な状況が生まれていたのである。

表2 薄板類生産に占めるストリップ・ミル製品とプル・オーバー製品(2)

         53年  54年  55年  56年  単位:千トン、%

 ストリップ・ミル製品  274   716   659   855

         (26.0) (42.8) (47.0) (53.7)

 プル・オーバー製品  783   957   743   735

         (74.0) (57.2) (53.0) (46.3)

     計   1,057  1,673  1,402  1,590

  ※薄板類とは、狭い意味の薄板とコイルとして販売される広幅帯鋼   を合わせてもの

 このように、原料供給を抑えられ、製品販売市場を侵食され、単圧メーカーの存立基盤は確実に掘りおこされはじめたのである。

 

(2) 単圧メーカーの系列化と親企業の支援による系列企業の近代化

  (1)で述べたように薄板生産部門における一貫メーカーのストリップ・ミル製品の進出により生産過剰となり、プル・オーバー・ミルによる薄板生産部門は再編成を迫られたのである。通産省においても再編成の方策は検討されたというが、再編成を主導したのはやはり一貫メーカーであった。 すなわち、「従来シートバーを供給していた系列薄板メーカーに対して、資金その他の援助を与えて、そのプル・オーバー・ミルを廃棄せしめて、新式コールド・レバーシング・ミルを導入させ、ホッ

                               (3)

ト・コイルを供給して冷間仕上げ製品を生産せしめる体制を整えさせ」た。これは親企業たる一貫メーカーにとっては、ホット・ストリップ・ミルの熱延能力がコールド・ストリップ・ミルの冷延能力に比べて過大であるためフル操業すれば必然的に過剰となる熱延広幅帯鋼(ホット・コイル)の販売先を確保するとともに、コールド・ストリップ・ミルに比べて規模が小さく小回りのきくレバーシング・ミルに多様な小口需要への対応をさせることができ、またプル・オーバー・ミルを廃棄させることにより生産過剰による価格の暴落を防ぐためにも効果があるのである。

 たとえば、日本鉄板は、八幡系の徳山鉄板(薄板単圧メーカー)と同じく八幡系の大阪鉄板製造(亜鉛メッキメーカー)とが冷間圧延から亜

                            (4)

鉛メッキまでの連続した工程の整備を「二重投資と競合を避け」て実現するため53年に「八幡の仲介により」合併した会社だが、大阪工場に八幡の支援でレバーシング・ミルを導入、54年8月に稼働を開始した。これにともない徳山工場は薄板生産を縮小して特殊鋼生産に重点を移した。

 このほかにも八幡製鉄系では、東洋製鋼、淀川製鋼がこの時期に八幡製鉄の支援によりレバーシング・ミルを導入してプル・オーバー・ミルによる薄板生産を休止ないし縮小した。

 富士製鉄系でもやや遅れて、大同鋼板が富士製鉄の支援によりレバーシング・ミルを導入している。

 大同鋼板は、52年頃の不況の中で富士製鉄の系列下に入ったが、54年にレバーシング・ミルを導入する計画を立て、これにともないプル・オーバー・ミル6基のうち4基を休止し労働者を半数解雇した。「本設備建設および関連合理化に関し、同社からの要請を受けて当社(富士製鉄…上岡注)および関連商社から資金協力を行った。/また同社の経

                        (6)

営再建のために、社長に当社小野清造常務を推薦した」という。このレバーシング・ミルは56年9月に稼働を開始している。

 以上のように、薄板単圧メーカーの系列化は典型的に進展したが、他の部門でも大なり小なり系列化は進展した。

 たとえば富士製鉄は、棒鋼単圧メーカーである関東製鋼が52年の後半に経営危機に陥った際、同社に資本参加し(52年11月)、さらに53年3月には社長を派遣して、特殊鋼生産に重点を移し、労働者375名を解雇して経営を立て直した。

 

(3) 単圧メーカーの敗退

(2)で述べたような親企業の支援を受けて設備近代化を進めえた薄板単圧メーカーはごく上層に限られていた。これ以外の多くの薄板単圧メーカーは近代化された大メーカー製品に太刀打ちできずに生産を減らし、ストリップ・ミルでは生産できない極薄物の生産や特殊鋼の生産に、あるいは二次製品の生産に移行せざるをえなかった。

 54年に薄板を生産した単圧メーカー(電炉メーカーを含む)は16社17工場あったが、翌55年の前半にはこのうち大谷製鋼の2工場の

                         (7)

うち1工場とその他3社3工場が薄板の生産を休止した。

 また、52年3月末には133基稼働していた旧式の薄板圧延機(プル・オーバー・ミル)は、55年末には94基が稼働するにすぎない状

       (8)

態に陥っていた。

 このような中下層の単圧メーカーの敗退は薄板部門に典型的であったが、他の部門においてもやはり大なり小なりこの時期にはじまり、高度成長期にはいりさらに激しくなっていった傾向であった。

引用文献

(1)前掲 日本鉄鋼連盟「戦後鉄鋼史」P436

(2)同上 P439

(3)市川弘勝「鉄鋼(改訂版)」(岩波新書1961)P219-220

(4)「日新製鋼30年史」P12-15

(5)同上

(6)「炎とともに 富士製鉄株式会社史」P850

(7)市川弘勝「薄板操短の背景」(政経月誌32 1955.8)P10・11

(8)前掲「戦後鉄鋼史」P469第43表ー(1)

 

 

終章 過渡期としての50年代前半

 

1.第一次合理化の過渡的性格

 

(1)戦後復興の完成と高度成長の開始

 鉄鋼業の第一次合理化がほぼ完了した55年は日本の国際収支が戦後はじめて特需なしで黒字になった年であった。「ドッジ・ライン以来枠をかけられた『原料を輸入するためには、輸出によって外貨を獲得しなければならない』という日本の交易条件を考えると、この55年の黒字の意味は重要であった。日本経済が自立してゆける可能性がみえた年な

    (1)

のである。」

 同様に鉄鋼業も、55年には第一次合理化を成功的に終え、欧米と対等の実力、とはいかないにしても同じ土俵のうえで競争できるだけの実力を身につけ「自立してゆける可能性」がみえてきたのである。「資本効率中心の国際分業の立場からみて、維持することに問題がある」とする鉄鋼業廃止論すら語られた第一次合理化開始直前の鉄鋼業の姿はもはやどこにもなかった。

 この55年から日本経済は高度成長を開始する。そして鉄鋼業も56年から第二次合理化に取り組み、さらに61年からは第三次合理化を開始、鉄鋼生産もウナギのぼりに上昇する。55年には粗鋼生産940万トン(世界の粗鋼生産に占めるシェア3.5%)だったのが、60年には2,214万トン(シェア6.5%)に倍増、61年にはイギリスを、64年には西ドイツを抜いて米ソに次ぐ世界第3位の鉄鋼生産国に成長、65年には粗鋼生産4,116万トン(シェア9.0%)へとまた5年間に倍増したのである。鉄鋼輸出はさらに大きく伸びた。世界の鉄鋼輸出に占めるシェアは65年には16.1%にまで高まったのである。

 では、この戦後日本鉄鋼業のめざましい発展の歴史の中で、50年代前半の第一次合理化はどう位置づくのだろうか。

 

(2)設備投資の規模にみられる過渡的性格

 第一次合理化には総額1,294億円がかけられた。これは第二次合理化の5,871億円と比較すると4分の1以下である。

 次の表は50年代の鉄鋼設備投資額とその製鋼トン当たりの額を欧米諸国と比較したものである。

(表1)設備投資額の対外比較(2)

      設備投資額(百万ドル)  年間製鋼能力トン当り投資額(ドル)

  年次  日本  欧州  アメリカ    日本   欧州  アメリカ

  51   63   ―  1,198    5.0  ―     11.5

  52   92   545  1,511    7.4  ―(13.0)  13.9

  53   96   542  1,210    8.1  ―(13.7)  10.3

  54   55   454   754    4.5  ―(10.4)  6.1

  55   50   524   863    4.4  ―(10.0)  6.9

  56   148   570  1,268    12.8  9.6(10.0)  9.9

  57   281   710  1,722    23.1 11.2(11.9)  12.9

  58   332   665  1,266    25.0 10.0(10.9)  9.0

  59   417   421  1,043    29.7  6.0

  (注)カッコ内は粗鋼年産トン当たりドル

 これによると、第一次合理化の時期の設備投資は、絶対額でアメリカの10分の1、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)6カ国の5分の1以下であり、製鋼トン当たりの投資額でもアメリカ・欧州のほぼ半ばの水準だったのである。

 これが次の50年代後半にはいると、製鋼トン当たりの投資額ではアメリカ・欧州の2倍の水準になっているのである。この50年代後半の大規模な設備投資と比較したとき、50年代前半の近代化(第一次合理化)は「戦後鉄鋼業全体からみれば、復興より新しい発展への過渡的性

    (3)

格を持つ」ものであることがわかる。

 要するに第一次合理化は、40年代後半の旧設備の復旧による単なる量的な回復とは違い50年代後半から60年代に続く大規模な設備投資の出発であるが、その規模においてはいまだ過渡的性格を色濃くもっていたのである。

 しかし、第一次合理化の過渡的性格は、その規模においてだけではなく、その内容においても明白である。

 

(3)設備投資の内容における過渡的性格

 第一次合理化は圧延設備の更新に重点がおかれたことは第1章で述べたとおりである。川崎製鉄千葉の一貫製鉄所を除けば高炉・平炉の新設はなく、戦前ないし戦中から引き継いだ製鉄所の高炉・平炉の改修・復旧を主とし、圧延設備の一部のみを近代化したにとどまったのである。

 これに対し、50年代後半になると、六大メーカーはこぞって新規に臨海立地の一貫製鉄所の建設を開始したのである。すなわち八幡は戸畑と堺、富士は広畑(拡張)と東海、日本鋼管は水江、住友金属は和歌山、神戸製鋼は灘浜に、それぞれ川崎製鉄千葉に続く一貫製鉄所を建設したのである。このことが、欧米の鉄鋼業の設備投資のほとんどが旧来の工場の拡張、改善によったのと比較して、日本鉄鋼業の大きな特徴となっていたのである。

 そしてここに導入された設備も、製銑工程では巨大高炉を新設、製鋼工程では旧来の平炉にかわって純酸素上吹き転炉を世界に先駆けて設置、また製鋼工程の産物である鋼を圧延工程にかける半成品とするための分塊・造塊工程を連続して行う連続鋳造設備を、これも世界に先駆けて導入、さらに圧延工程にも第一次合理化にはじまる近代的設備をさらに大規模に導入、一挙に生産力を向上させたのである。

 とくに技術革新として大きな意義をもつのは純酸素上吹き転炉と連続鋳造設備である。純酸素上吹き転炉は52年にオーストリアで開発されたものであるが、当初は大気汚染、適応品種の範囲の狭さ、炉内レンガの耐久性など多くの問題を抱えていたが、日本の各メーカーは57年頃からこれを導入、改良を加えて実用化、その精錬時間が平炉の10分の1であること、設置費用も安いこと、屑鉄を必要としないことなどの長所をいかしたのである。また製鋼工程の産物である鋼を圧延工程にかける半成品とするための分塊・造塊工程を連続化する連続鋳造設備も55年頃から導入、これも様々な欠点を克服して実用化したのである。

 そして、日本鉄鋼業の60年代にかけての高成長はこのような「旧工

              (4)

場の改善などではない新規工場」による規模の経済性の達成、そしてそこに「投下された資本が『規模の経済性』を可能とするような数々の技

              (5)

術革新に裏付けられていたこと」によりもたらされたことを考えるならば、日本鉄鋼業の「近代化に支えら」れた成長が真に開始されたのは50年代後半であり、50年代前半の第一次合理化はそこへの過渡ないし準備であったというべきであろう。

引用文献

(1)前掲 米倉「鉄鋼―その連続性と非連続性」P307

(2)前掲 飯田ほか「現代日本産業発達史W 鉄鋼」P431

(3)同上

(4)前掲 米倉「鉄鋼―その連続性と非連続性」P267

(5)同上 P268

 

 

2.六社体制への過渡

 

 日本鉄鋼業の発展をもたらしたのは、過剰とも思える大規模な設備投資とこれを支えた技術革新であったのであるが、これを各メーカーに強要したのが六社体制と呼ばれる六大メーカーによる競争的寡占の状態であった。

 先に述べた一貫製鉄所の建設にしても六大メーカーが互いに他社に遅れまいとして競争で行われたものであった。すなわち50年代前半には川崎製鉄が千葉に一貫製鉄所の建設を開始、58年には一貫生産体制が一応できあがり、先発の一貫3社とならんだ。このことはほぼ同様の条件にあった住友金属を神戸製鋼に強い刺激を与え、両社とも50年代後半にはいるとすぐに一貫製鉄所の建設を開始した。こうなると先発の一貫3社にしても黙視しておれなくなり、それぞれが新たに臨海立地の一貫製鉄所の建設を開始したのである。

 またそこにおける純酸素上吹き転炉にしろ連続鋳造設備にしろ、六大メーカーが競争で導入、改善をおこない、その結果として日本鉄鋼業の技術革新が世界の最先端に位置するにいたったのである。

 またこの55年代後半には、ストリップ・ミル建設競争(従来の八幡・富士の独占に川崎製鉄、日本鋼管、住友金属が参入)、そして独占品種のつぶし合い競争という形で圧延部門における設備投資の競争も行われたのである。

 この六社による競争の体制も、50年の日鉄の分割を契機にして50年代の前半に形成の端緒がつくられ、続く50年代の後半にはいって本格化したことも第2章で述べたとおりである。ここにも高度成長期の鉄鋼業の発展への過渡ないし準備期としての50年代前半の性格が読み取れるのである。

 

 

3.高度成長期の発展を準備した50年代前半

 

 50年代前半は50年代後半から60年代にかけての高度成長を準備した時期である、ということはよく言われることであるが、その内容について、すなわちどう準備したのかということについては必ずしも明確には語られていないように思われる。

 そこで、ここでは鉄鋼業に関して、50年代前半の動きがどのように高度成長期の発展を準備したのかという観点からこれまで述べたことについて整理してみたい。

 第一に、第一次合理化の成功により、日本鉄鋼業がコスト、品質両面において国際水準にまけない製品を供給できるようになったことをあげなければならない。このことが鉄鋼製品の国内および国外の需要の増大をもたらした。

 それはたとえば高度成長期の鉄鋼需要の増大をもたらした家電産業や自動車業界の発展にしても、その製品の材料としての冷延薄板等の鉄鋼製品が高品質・低コスト供給されたことがその前提であった。またこの時期の輸出の花形であった造船にしろ軽機械にしろ、その競争力の前提はやはりその材料としての鉄鋼製品の高品質・低コストであった。そしてこのことは他の多くの産業分野にも大なり小なりみられることである。 第二に、第一次合理化の過程で大メーカーが一定の資本蓄積を実現したこともあげなければならない。この内部蓄積を基礎としてさらに大きな第二次、第三次合理化が可能となったのである。

 しかしそれにしても、その設備投資の規模に比して資本蓄積が著しく貧弱であることは依然として変わっていない。このためこの不足する資金をカバーする金融機関の役割もあいかわらず重要であった。そこで鉄鋼業の発展をもたらしたことの第三に、第一次合理化の成功により日本鉄鋼業が自立しうるようになったということは、民間金融機関が採算ベースで安心して鉄鋼業に融資できるようになったことを意味する、ということがあげられなけらばならない。すでに協調融資の中心に開銀がいなければならないということもなくなり、大蔵省の融資の要請も必要なくなったのである。56年から開銀が重点融資の対象から鉄鋼業をはずしたこともこのことの証明であろう。もっとも、民間金融期間の融資も日銀の信用供与に支えられたオーバー・ローンによるものであり、国家の役割がなくなったわけではないが。

 第四に、第一次合理化の中でひとり川崎製鉄が一銑鋼一貫工場の建設に取り組み成功させたことがあげられる。この成功に刺激され、50年代後半には他の5社が競争で一貫製鉄所の建設競争をはじめ、このことが、日本鉄鋼業の発展がもたらされたのである。

 もっとも55年頃には川崎製鉄千葉のストリップ・ミルは建設されておらず圧延にはプル・オーバー・ミルを使用していたのであり、最新一貫工場の成果を実物をもって示すにはまだいたっていなかったのであり、またすでに50年秋の段階から住友金属と神戸製鋼は一貫工場の新設を計画していたという(実現しなかったが)経緯からしても、この功績は必ずしも川崎製鉄だけのものではないとも思うが。

 第五に、六大メーカーによる競争的寡占体制の成立の端緒がつくられたことがあげられる。

 本章の2で述べたように、日本鉄鋼業の脅威的な発展のもたらした一つの要因として、六大メーカーによる過当ともいえる競争体制が各メーカーをして生産過剰を生み出す危険も省みずに設備拡張競争にはしらせたことがあげられる。この六大メーカーによる競争の体制ももともとは50年の日鉄の分割にはじまり、川崎製鉄等の平炉大手3社が一貫化をめざした50年代前半の動きにはじまるのである。

 

引用文献

(1)前掲米倉「鉄鋼―その連続性と非連続性」P299

 

おわりに

 

 以上で一応本論文は終わりとする。

 1年間かけたにしてははなはだ不満足なものしかできなかった。ほかに扱いたいこともたくさんあったが、今後の課題としたい。

 ただ鉄鋼業における労働過程ないし労使関係の変化については是非踏み込みたいと思っていたが出来なかったのは残念である。いわゆる日本的労使関係の形成をぬきにしては日本経済の特質は語れないと思うし、またこの問題ぬきで産業の歴史を語ろうとするとどうしてもそれを手放しで賛美する形になってしまうと思うからである。しかし手がまわらなかった。

 いろいろ不満は残るが、振り返ると楽しい1年間だった。

この1年間、資料のさがし方から始まって最後の文章のまとめ方まで丁寧に指導してくださった坂井先生には深く感謝するものである。

 またこのような機会を用意してくださった放送大学にも感謝するとともに、今後もこのような機会を様々な形で与えてくださるようお願いしたい。

                     

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