好奇心について−放送大生の好奇心は旺盛か?

                                                                             坂井 素思

 

  放送大生について、「好奇心が旺盛である」という定評がある。面接授業での質問が他の大学よりも圧倒的に多いところに顕れている。また、卒業研究のテーマがバラエティに富んでいるところにも見ることができる。このように例を挙げていけば、かれらの喜々とした顔がありありと浮かんでくる。放送大生のなかに実に様々な好奇心が見られることはまちがいない。
  好奇心といえば、ふつうは子供の専売特許であるかのように思われている。「子供のような好奇心」と形容されることが多い。事実、若いときの好奇心が高じて、学問の世界に入っていく先生方の話をよく聞く。だから、昆虫学者ファーブルが学者人生モデルの最適例として挙げられるのは、すごくよく理解できる。純粋な好奇心が出発点となり、途中飽くことなき好奇心が必要で、直線のように無限に導くような好奇心こそ尊ばれることになっている。
  たしかにその通りだが、それでは放送大生には当てはまらないのではないか、とにわかにクレームが付きそうである。茶化しているわけではないので誤解しないでいただきたいのであるが、放送大生の多くは決して若くはないし、そして人生経験が多いので、これもまた決して、直線的ではないし必ずしも純粋な人でもないと思われる。しかしそれにもかかわらず、依然として「放送大生は好奇心旺盛である」と噂される。
  わたしは、ここではじめて好奇心ということの概念を変えざるを得ない事態に立ち至ったのである。つまり、好奇心は子供に特有なものでなく、老いてなお盛んなものであり、直線的でなくむしろ曲線的な好奇心であり得るし、いわば「いぶし銀」の如くの好奇心が、放送大生には存在すると思われるようになったのである。金ぴかでなく、奥深さを秘めた輝きの好奇心である。
  いぶし銀で思い出したが、英語で好奇心は curiosity と言い、この curio には骨董品という意味がある。英国ディケンズの小説に『Old Curiosity Shop(骨董屋)』というのもある。つまり、好奇心はふつう「未知の世界」へ向かって発揮されるものと考えられているが、この骨董品の意味に顕れているように、じつはむしろ「既知の世界」ヘ向かって発揮される場合も多いことを知ったのである。また、 curio は、care につながり、「注意深い」という意味も含まれているらしい。
  さて、長くなってしまったが、ここでようやく今回言いたかったことに行き着いたようである。じつはここで、経済学者ヴェブレンの言葉を紹介したかったのである。それは、idle curiosity(怠惰なる好奇心)という言葉である。idleというのは、怠け者で役立たずという意味であり、ふつうは好奇心とは結びつきようがない言葉である。ところが、放送大生の「好奇心」に照らせば、たちどころにその意味が明確になると、わたしには思われる。勿論放送大生自身が idle なのではなく、ここでの idle は、おもいっきり回り道をしようということであり、紆余曲折を楽しみながらの好奇心を発揮することを指している。

  ところが、近代になって科学技術がこの好奇心を利用し始めるようになると、にわかに直進的で、役に立つ好奇心が台頭することになってしまったのである。このように、今日では好奇心は怠惰なものだということは、決してほめ言葉でも教訓でもないのであるが、しかし厳然たる事実として考えると、今日であってもやはり真の意味においては、好奇心とは人生を半ばして、そのあとにやっとわかるようになる道楽の心境のひとつと考えてよいのではなかろうか。たとえ皮肉に聞こえようとも、あえてわたしはここで、「放送大生の好奇心は怠惰であれ」と言いたい。そしてこの意味で、わたしは現在でも放送大生の好奇心は非常に旺盛であると考えているのである。

(UA神奈川学習センターなつだより 2000 7.1掲載)

 
 

 

 

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